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2009年10月22日 [その他(映画紹介)]

ベアズ・クロウ」の制作も着々と進んでいますが、今日は最近DVDで観た映画を2本ご紹介します。筋書きや重要な登場人物についても触れていますので、未見の方はくれぐれもご注意ください。

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1本目は、紀里谷和明監督の「CASSHERN」。劇場公開当時、クルマを運転中にFMラジオで宇多田ヒカルの主題歌を聴いて感動して以来、ずっと気になっていた作品ではあった(唐沢寿明がどんな役を演じているのかにも興味がありました)のですが、実際に観てみると、予想していた以上に満足できる仕上がりでした。音楽関係のビデオクリップを数多く手掛けてこられた人の第一作ということで、構成も描写もかなり荒削りで、最初の30分くらいは非常にクドい(3分くらいのPVならカッコイイ映像も、長時間だと目や脳が疲れてくる)「映像美」に辟易して、途中で止めようかと思ったりもしましたが、最後まで観ると意外にも(笑)筋立てをきちんと練って作ってあるように思われ、カッコイイ映像を撮るために適当に散らしていたのかと思っていた(笑)いろいろな伏線も、最後には一貫したテーマに回収されていったようです。

大昔にテレビで放映されたアニメ番組とも関係がないわけではないそうですが(詳しい事情はよく知りません)、私は原作との関係などは考慮せずに観賞して、よくできた「戦争映画だな」という印象を受けました。いったん戦死した後に特殊な方法で生き返った主人公は、いちおう自分の所属する社会の価値判断基準に従って行動し、その基準で「悪」とされる相手と戦うわけですが、彼は決して自分を「絶対的な正義」だとは考えておらず、むしろ「自分の行動もまた他者を傷つけているかもしれない」という葛藤と戦いながら、与えられた使命を果たすという、非常に屈折したキャラクターに描かれています。自分の行動を「正義」と位置づけることに何の葛藤もないような主人公は、逆に存在が薄っぺらなものに見え、感情移入もしづらいので、この描き方は(主演俳優の演技力はともかく)好感が持てました。

私がこの映画を観ていちばん感銘を受けたのは、いわゆる「戦争」が無くならない理由のひとつが、人間の心にある「愛(Love)」なのではないか、という難しい(そして歓迎されない)問題を正面から取り上げている姿勢でした。現代の日本社会では、戦争というのは「悪い心を持った悪い人間」がするもので、みんなが心をきれいにすれば戦争はなくなる、といった「戦争観」が広く受け入れられており、その邪悪な戦争(War)の対極に崇高な愛(Love)が存在するかのような認識を公然と口にする人は、老若男女を問わず、少なくないようです。しかし、戦争を継続させる最大の動機が「愛する家族を守るため」あるいは「愛する家族を殺された恨みを晴らすため」であるとするなら、人間の崇高な「愛」の力が強ければ強いほど、戦争の根絶は望めないということになってしまいます。

最初の文庫『中東戦争全史』のあとがきでも少し書きましたが、戦争で家族を失った人間にとって、家族を殺した敵に「復讐する」という行為は、失った家族に対する「愛情の深さを証明する機会」に他なりません。その「愛情の深さを証明する機会」を捨てて、家族を殺した相手を「赦す」というのは、人間の精神にとってはきわめてハードルの高い行いです。周囲からは「お前は家族を失ったのに怒りの感情はないのか、この冷血漢が!」と罵られ、残された家族からは「あなたはどうして家族を殺したあいつと仲直りするの」と責められる。それでもなお、この映画の最後で主人公に語らせているように、敵を「赦す」愛(Agapee)を心に抱くことができれば、戦争をなくすという永遠のテーマにも解決の糸口が見えるかもしれませんが、それは修行僧の解脱にも匹敵するほどの難行にほかならないでしょう。我々のような平凡な人間には、不可能に近い要求です。

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2本目の作品は、君塚良一監督の「誰も守ってくれない」。殺人事件を犯した加害者の家族が、事件によって「世間」の(冷酷きわまりない)好奇と非難の矢面に立たされる。その深刻な人権侵害から「加害者の家族」を守る刑事が主人公ですが、この刑事はかつて、捜査上の不手際から目の前で起こりつつあった無差別通り魔事件を防げなかったという心理的なトラウマを抱えた人物です。そして、通り魔事件で死んでしまった少年の命を守れなかったという罪の意識に苛まれながら、その(亡くなった)少年の両親との関係を自ら保ち続けています。

一方、被害者の少年の両親は、ふだんは穏やかな人物で、主人公の刑事が来訪しても快く迎えて「私はあんたを恨んじゃいない。あんたはただ上の命令に従って行動しただけだ。警察は恨んでいるが、あんたのことは恨んではいないよ」と、温かい言葉をかける。しかし、その刑事が保護している少女が、新たな殺人事件の犯人の妹であることを知り、その事件の詳細(ナイフによる惨殺という少年が死亡した事件と同一の手口)を知った時、それまで辛うじて保たれていた、少年の父親の精神のバランスは崩れ、刑事に対して「本当はお前の顔も見たくないんだ! すぐに出て行け!」と言い放ちます。刑事は「加害者の家族も(メディアスクラムや野次馬による人権侵害の)犠牲者であって、犯罪者ではない」と考えていますが、被害者の家族にとっては「加害者の家族は恨みの対象である犯罪者の(犯罪行為には関係していなくても)仲間」でしかない。理性では「刑事は悪くない」と完璧に理解できていても、感情の奥底ではやはり「恨み」の感情を完全に払拭することができない。心の底からは「赦す」ことができない。その深い葛藤に、いろいろと考えさせられるものがありました。

アマゾンのレビューを見ると、「CASSHERN」は観た人の評価が1~5まできれいに分かれていて面白い(「誰も守ってくれない」もけっこう割れている)ですが、中には「内容が原作と違う」ことを理由とする否定的評価も少なからずあるようで、特定の「題材」を取り込みながら創作する作業の難しさを考えさせられます。シミュレーション・ゲームの場合も、特定のテーマをどのように切り取って、どの部分を再現するかという面で、それぞれのユーザーの「イメージ」や「予備知識」との一致が問題になりますが、史実の作戦経過を忠実にトレースしていれば「良いゲーム」、していなければ「悪いゲーム」というような単純な評価ができないのと同様、映画の場合も原作や「史実」に忠実だからといって、それだけで「良い作品」とは言えないはずです。とはいえ、お客さんがお金を払って、その商品に何を求めるかというのは、無視できない重要な要素なので、そのあたりの線引きは明確に引くことが難しいと言えます。

ちなみに、私は書物であれゲームであれ、テレビ番組や映画であれ、自分が観たり読んだりして「よかった」「得るものがあった」と思ったものは、ブログで堂々と褒めて、その理由も書くようにしていますが、「よくなかった」「得るものが見つからなかった」と思ったものについては、そうは書かずに、黙ってスルーすることにしています。その理由はいろいろありますが、最大の理由は「現在の自分がその価値を理解できなかったからといって、5年後あるいは10年後もそうだとは限らない」ということにあります。

人間は誰しも、自分の能力の範囲内でしか物事を評価できませんが、その能力は常に変化している(私は「成長している」とか「進歩している」と思いたい)ので、たまたま現在の能力では理解できなかったというだけかもしれない本や映画、テレビ番組、絵画、ゲーム、その他の創作物を、軽々しく否定的に評価することは控えよう、と思っています。というわけで、このブログをずっと読んでおられる方は、少し前の記事で「近々観ます」と書いた某映画の評価を私が書いていないことについて、「そういうことか」と察していただければ幸いです(今回の記事に、少しだけヒントを書いています)。
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ノガミ

こんにちは。他人のつくったものを評価するのは本当にむずかしいことだと思います。自分もずいぶん前になりますが、ネットの掲示板で某ゲームについてケチョンケチョンにけなしてしまいました。でもその数年後に、友人の評価を聞いたおかげで、そのゲームの素晴らしさを理解でき、今ではその友人とちょくちょく対戦しています。友人がいなかったら自分は今でもそのゲームをボロクソに言っているでしょうね。よき友人に感謝。
by ノガミ (2009-10-24 15:23) 

Mas-Yamazaki

ノガミさま: コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、昔「悪く評価した」ものの価値を、後になってから発見した時の「気恥ずかしさ」というのは、おそらく年齢に関係なく、人生最後の日まで、経験する可能性があると思いますし、逆に「昔は素晴らしいものに思えたけれども、今観たり聴いたりすると『あれ、こんなだったっけ?』」というような場合もあると思います(先日横浜でお会いした堀場さんとも、この話題で盛り上がりました)。

ネットで誰でも情報発信できるようになったおかげで、たくさんの「レビュー」を簡単に読める時代になりましたが、自分が見落としていた要素や、自分が知らなかった「対象物の誤りや問題点」などを指摘していたりするものも多いので、自分の評価をブログに書く前には、なるべくその対象物に対する、他の人の評価も見るようにしています。

ただ、その分野の専門家が専門的な視点から「瑕疵」や「不備」を指摘して批判しているものであっても、私自身が「観てよかった」「得るものがあった」と思えたものについては、既に「問題点がいくつか指摘されている」ことを付記した上で、ブログで肯定的に紹介しています(NHKの「マネー資本主義」など)。

表現上・記述上の間違いや問題点は、当然「無いのが理想的」ですが、人間の仕事である以上は、完全無欠な完成度というのはありえないものです。また、事実や「正しい表現法」も時代と共に移り変わったりする場合もあります(従って、例えば戦前の表現物を戦後の価値判断基準で断罪するのは無意味だと思います)。私にとっての評価基準のひとつは「自分にとって得るものがあったかどうか」なので、世間の評価が最低であっても、表現上の問題が少しくらいあっても、得るものがそれ以上に大きければ、肯定的な評価の対象になります。

戦闘序列の師団番号や地名の表記に間違いがあるから「駄目なゲーム」だ、というような、皮相的な「ゲームレビュー」は最近では少なくなったようにも見えますが、それでもまだ、対象物の間違いを挙げつらうことで評者の自尊心を満たすことが目的のような「切り捨てレビュー」は、時おり目にすることがあります。個人のブログであれば、別に「切り捨てレビュー」でも他人が文句を言う筋合いはないですし、単に自分が見なければいいだけの話ですが、お金を出して買った雑誌にそういう記事が出ていると、お金を損をしたような気分になります。

評価が主観に過ぎないのと同様、レビューという行為の良し悪しの基準もまた主観でしか語れないものではありますが、「目から鱗が落ちるような」上質なレビューに巡り合った時には、旅先で偶然に素晴らしい風景を目にした時と同じような喜びがあります。なので、今後もいろいろな人の「レビュー」を読んで、新しいものを吸収していきたいと思います。
by Mas-Yamazaki (2009-10-26 17:48) 

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